「住民投票はなぜ否決されたのか」を検証する
静岡空港・建設中止の会(住民投票の会改め)
事務局長 林 克
はじめに
今年の2月5日、「住民投票はなぜ否決されたのか-議員から見た住民投票制度」(出版社「ぎょうせい」)という、静岡空港建設の是非を問う住民投票条例を取り扱った本が出版された。著者は、自民党所属の県会議員で総務委員長を務め、条例案を取り扱った連合審査会で中心的な役割を果たした牧野京夫(まきのたかお)氏で、条例審議をドキュメンタリー風につづり、なぜそれを否決したかという結論を解説している。
署名が終了して知事が賛成の緊急記者会見をする前後の様子など、当事者でなければ聞けない話が満載で、とても興味深く読ませてもらった。牧野氏が、それなりにいろいろ勉強され、審議に時間をかけたということについては、その後の合併問題での住民投票条例審議の静岡、清水の市議会と市長の対応に比較すれば、大いに評価できるところである。
しかし条例を取り扱う努力ではうなずけるところがあっても、条例案を取り扱う過程や否決するために下した結論は、私たちの主張とは正反対のものである。企画生活文化委員会が否決したときに、自民党県議の否決の理由は「県民の73%が賛成する(読売新聞世論調査)条例案を否決するには、およそ説得力を持たない理由」という声明を出したが、まさにその通りの内容である。
これらの説得力を持たず、しかもこじつけのような理由で、条例案が否決されたのは、たいへん残念でならない。その後の専門家委員会の議論を聞くたびに、県議会議員にもう少しチェック機能があったならと考えることはたびたびあったし、せっかく芽吹いた「静岡県民」意識という自治の芽を摘んだ自民党議員の責任は大きい。事実、否決のニュースの後に、反対をした議員名をすべて公開してほしいという要望が相次いでいる。
この本において展開されている否決の理由は、否決時点の自民党県議が理由としたものとほぼ同じであると考えていい。それは牧野氏が、7月7日に「(条例案を)継続審査に持っていくために組み立て」をすることを、市内のホテルでパソコンを打つ表現(当該書59ページ)から、継続審査、および否決へ運ぶために同氏が果たした役割が大きいことが見て取れる。その意味で、ここに展開されている論点をきちんと検証することは、住民投票を否決した自民党県議の責任をはっきりさせることにおいて、きわめて重要であると考える。
私たちは県に、県民からこれだけ疑問がわいている静岡空港建設の是非を県民に判断させてほしいと請求したが、結果的にそれを拒否をした。したがって静岡空港は、県民合意が取れていない事業であり、県は県民多数の合意を得る自信のないことを自ら認めたことである。私たちは否決後3ヶ月の議論を経て、「大事なことはみんなで決めよう」を主張していた「住民投票の会」を「静岡空港・建設中止の会」に改組した。その方針の中で、来年の県議選において住民投票に賛成する県議会をつくっていく活動が謳われているが、それを実現するにもこの検証はさけて通れない。
牧野氏は否決の理由を、
1) 請求ならびに条例案そのものに問題があること、
2) 住民投票制度がまだ十分に確立していないこと、
3) 静岡空港建設が、住民投票になじまないこと、
4) 住民投票の実施が困難なこと、
5) 住民投票を実施した場合の影響が大きいこと、
6) 空港建設の是非が最大の争点となった知事選挙の結果、
としている(当該書263ページ)。この順番に沿って、否決の理由を事実に即して検証していきたいと考える。
1 請求ならびに条例案そのものに問題があったのか
(1)請求目的について
牧野氏は「請求の目的に疑義がある」といっているが、これはたいへんわかりにくい議論である。どうやら私たちの運動が中立でないので問題がある、それは否決する理由足りうると言っているようである。しかもこれが否決の理由の一番最初に来ているのを見ると、たいへん重要視しているのであるが、そのわりにその意味が多義すぎて特定できない。私たちの運動が中立でないといっていることについて、・空港に反対しているものが住民投票を請求するのはおかしい、・請求を党勢拡大に利用している、・請求を知事選に利用している、という意味の違う内容が入り交じっている。ほんとうはそれぞれ違うことを意味するのであるが、牧野氏はそれをまぜこぜにして、普通の人たちがした運動でなかったことを印象づけるために、理論的にではなく、党略的な意味合いで使っているようである。どの意味で使っているのかということは別として、そのおのおののことについて検証してみたい。
1) 空港に反対しているものが住民投票を請求するのはおかしいのか
連合審査会の中で、自民党議員は、住民投票の会の稲葉世話人に対して、県議会議員に送られてきたハガキを示し、「99・9%が反対であり、中立性に問題がある」(当該書105ページ)としている。県会議員に向けたこのハガキ要請行動は、知事が条例案に賛成を表明する中で、県会議員に少しでも県民の声を届けようと企画されたものである。街頭に立ってマイクを握り、街ゆく人に要請ハガキを訴えると昼休み1時間たらずの行動で、50名から60名の人たちが足を止めてハガキを書いた。自分の名前をはっきり明記してハガキを書く姿を眺めていて、これまでのどの要請行動でもこんなに積極的に応じたことはないと感じた。その中では「99・9%が反対であり」というのは大げさであるが、半数を超えるかなりの部分(残りの部分は「大事なことはみんなで決めよう」に賛同する)は、空港に反対であるとはっきり意思表示する。牧野氏は、「署名をしたかなりの部分は中立だと推測できる」としているが、実際署名やハガキ行動をしたものから見ると何という認識不足かと指摘せざるをえない。その人たちが、思いあまって真情を吐露することを彼は非難しているのである。その連合審査会のときに、ある自民党議員は自分がもらったハガキを束にして稲葉世話人に突っ返したのだが、これは参考人に対して非礼なだけでなく、自分が県政に参加できると考えたすべての県民の願いを踏みにじることであることを申し添えておく。このことは今後も繰り返し県民に宣伝していきたい。
確かにこの条例を通すかどうかという時点で、自分の真情を吐露しやすいハガキ要請行動を戦術としたという点が、適切であるかどうかは議論となることであろう。しかし後の論点である議会と県民のギャップがあったかどうかにも関わることであるが、県議はこれが県民の静岡空港に対する意識であると現実を直視すべきである。
では静岡空港建設について、はたして反対の意見を持つものは住民投票を請求することができないのであろうか。欧米において住民投票は、イニシアティブ、レファレンダム、リコールに分けられる。このうち今回の住民投票に相当するのはレファレンダムであり、これは長や議会が推進する事業、施策について異議を差しはさみ住民投票を請求するものである。その多くは、反対の立場から請求される。この議員がいうような論点では、欧米の住民投票はすべてだめというようなものである。
また住民投票の会では、そこに集まった個々の人たちの多くは空港について反対を表明していたし、反対を旗印に運動をしてきた人たちである。しかしその度合い、スタンスはそれぞれ大きく異なっているといわざるをえない。それを越えて住民投票の実現、「大事なことはみんなで決めよう」ということが全体の合意になっていた。そこに参加した団体個人と、「住民投票の会」の約束ごとは、明らかに別に考えるものであり、「住民投票の会」の組織として反対の行動をしたことはない。ただし疑問を呈したことは確かである。疑問がなければ住民投票を請求をする意味はなく、それを理由に請求に疑義を示すのはたいへんおかしなことである。
注)イニシアティブは、住民が提案する条例案の是非を問う住民投票。リコールは、罷免させたい長や議員の解職の是非を問う住民投票。
2) 請求を党勢拡大に利用しているのか
次に「請求を党勢拡大に利用している」という点である。この党勢拡大というのは、どこの党ということが明示されていないが、前後の文脈からするとどうやら共産党のことらしい。その理由として「請求の検証」の中で、「共産党県委員会の幹部が『住民投票条例案を求める活動で共産党パワーを示せた』と発言している」(当該書264ページ)ことを理由としている。これは、「署名活動の中でがんばった」といっている意味である。私も住民投票の会事務局長として、会に参加してきた団体としての共産党のがんばりを評価している。共産党の市町村議員の方々は実にまじめに、前向きに署名を取り組んでいただいた。しかしこれは同じく参加した新社会党の議員の方々にもいえるし、政党として参加しなかったが、個人として署名を取り組まれた他の政党の議員の方々にもそれはいえることである。牧野氏が「党勢拡大の活動は、政党として認められるものであり、手段として住民投票を利用することも責められるものではないと思うが、審議する立場からすれば、請求の目的に疑義があるといわざるを得ない」としている。「手段として利用」しているかどうかは別として、「認められ、責められないけど疑義がある」というのは意味が通らないことではないかと考える。
また「共産党県委員会の幹部」の並びに、「『住民投票の会』の林克事務局長が、党の機関誌のインタビュー記事のなかで同様の発言をしている点」(当該書264ページ)と、私を名指ししてその根拠としている。機関誌としているので、それは『前衛』8月号にのったインタビュー記事のことと考えるが、その中で「住民投票の会は、空港反対の人も空港賛成の人も『建設続行か中止かは、みんなで決めよう』という目的で一致した会です」と明言している。どの部分かを示さずにあげつらうのは、その意図に自信がないからか、事実でないからである。
3) 請求を知事選に利用しているのか
つづいて、「知事選の前に条例の請求をしたこと」についても疑義を呈していると思われる。それは連合審査会のなかで、自民党議員がさかんに知事選の前に請求をしたことを問題視している。それと同時に牧野氏は、「『静岡空港・住民投票の会』の中核は、空港反対を訴える2人の支援に分かれた」(当該書64ページ)と認めている。本当に知事選に利用するならば、石川知事に利するような「2人の支援に分かれる」ようなことを会がするのだろうかということを冷静に考えてもらいたい。
2000年11月の「住民投票の会スタート集会」で、「知事選と一線を画してほしい」という要望がフロアから発言されている。これ以来住民投票の会では、世話人会や事務局会議のなかで、知事選について議題になったことは一度もなかったし、議題にならないことは利用する、しないの問題外ではないだろうか。
それと同時に、欧米の住民投票は議員や長の選挙と併せて実施されることも確かである。これは経費の節減ということも大きいが、長や議員の選挙はワンパッケージで、その政策のおおかたは賛成できても、残りの賛成できない部分を住民投票で問うことは合理的である。選挙にぶつけてきたとの批判は、欧米では考えられない批判であろう。
見てきたように、「運動が政治的に中立でない」という批判は意味が特定できない。私たちの会は「みんなで決めよう」を確認しているが、なぜ空港の問題に反対のものが請求してはいけないのか、共産党が自分で「がんばった」と評価するのがなぜいけないのか、知事選と同じ時期ではなぜいけないのかを理論的に説明しているわけではない。請求が牧野氏が言うところの「悪しき意図」ということだけで、とても否決の理由となるような根拠のないものである。まして否決の理由のトップになるものとしているのは、とても「ぎょうせい」でだしている本とは思われないような内容である。
(2) 請求の要旨について
住民投票を請求する人たちが、仙人のように「公正」に、ある意味では無味乾燥に請求すると考えておられるのだろうか。先に述べたように、レファレンダムの請求は、現在進められている事業に異議があるからである。もし「重大な問題点が明らかになっていなければ」、レファレンダムの請求自体が成り立たない。
牧野氏は、「見解の相違としてかたずけられない」(当該書265ページ)として需要予測をいっているが、ほんとうに178万人も利用するのかというのは、県民誰もが思うところである。私たちの試算でも70万人以下である。航空運賃を加味すると40万人以下になる(住民投票の会・需要予測を参照)。
これが重大な問題でなくて何であろう。県は赤字にならない(維持管理費を出せるという程度)と叫んでいたが、最近知事は「赤字でもかまわない」といっている。この変化については、何も説明していない。178万人という数字に、自信がなくなったとしか思えないのである。
もっとも「赤字でもかまわない」というのは、新幹線も通っていない北海道や九州など、航空で交通権を確保するしかないところのことである。こうしたところは、少しぐらい赤字でも住民は納得するだろう。しかし静岡はそうではない。羽田、名古屋に行っていた時間を数十分短縮するだけである。しかも運賃は、静岡空港の方がずっと高い。これではとうてい、「赤字でもかまわない」といえないことは確かである。
確かに趣旨の文章は、少し激越にすぎる部分はあるが、しかしこれは県民が感じている実感である。知事はこの趣旨も含めて、「そもそもその必要性までさかのぼって」住民投票が必要だと賛成意見をつけたのである。そのことをきちんと受け止めてもらいたい。
(3) 条例案について
私たちの目的は、住民投票の実施であった。そのためには条例案については、「私たちの目的は、これまで述べてきた主旨に添って住民投票条例を速やかに実施できることです。しかし課題として示されたことは、条例制定の技術的問題にかかわるところが多く、私たちは条例制定に関して素人であり、プロである議会の皆様に、ぜひ適切に議論していただきたいと考えます」と、7月6日の連合審査会の参考人招致で稲葉世話人が発言している。条例制定の技術的問題については、議会に適切に議論してもらいたいことを議会に対して要請したものである。つまり合理的な理由があれば修正に応じることを議会に向けて宣言していることについて、否決の理由としてあげていることには、首を傾げざるを得ない。
牧野氏は、「条例案の検証」の結論で「『住民投票管理委員会の設置』まで削除修正すると請求者の意志に反することになり、請求された条例とは性格の異なるものとなる」(当該書267ページ)としているが、同じく連合審査会で稲葉世話人が、知事の意見にふれて「『本委員会を設置する特段の理由はない』というのなら、どのように公正を確保するかを県当局は示す必要があると考えます」として、公正の確保を示せば修正に応じると述べたことに目をつぶっているのは、何か意図して反対の理由として挙げているとみざるをえない。
連合審査会のなかで、平成21に所属している寺田議員が、条例案のなかに踏み込んで質問するのを「私をはじめ、自民党の委員は面喰らった」(当該52ページ)としているが、そのとき本当に「面喰らった」のは、条例案の内容の審議に入らない自民党県議に対して、傍聴者やそこに居合わせた人であった。それは中身に入らずに、継続審査や否決に持っていきたいという自民党県議の意図が見え隠れしたからである。
2 住民投票制度の問題点をまともに論じたのか
牧野氏は、議会の準備を進めるにつれ「住民投票そのものへの疑問が徐々にふくらんでいった」(当該書46ページ)としている。制度の検証のなかでも「討議抜きで結論がでやすい、情緒に流されやすい」(当該書268ページ)など、参考人として招致した成田横浜国大名誉教授の言葉を引用している。しかし私たちは、全国の例を見るなかでも住民投票をやることにより、街のあちこちで議論が起こることは、証明されてきたことである。これは制度の問題というよりは、いかにそれを保証するかという制度を静岡県においてこれから作るのかという問題であったと思われる。
また自治法74条の条例制定請求が、公共事業の中止まで予定していなかったとしている。この点で前述の成田名誉教授の言葉を引用し、「拘束型で住民の意思を問おうとすれば(請求要件)の50分の1の署名を改めなければならない」(当該書216ページ)としているが、これだけ書いたのでは不公平である。つまり日本の場合は、50分の1で請求できるが、その後議会の議決が必要である。つまり、長や議会の施策の異議申し立てとして条例が請求されるのだが、それに対して実際に意見をつけたり審議をするのは異議申し立てされている長や議会である。ここに請求しても否決の繰り返しという、日本の制度の矛盾がある。欧米では、一定の署名が集まれば(ドイツでは一般の市町村で10~15%、大きな自治体はもっと低い数字)議会の議決抜きで住民投票が実施される。これに比べても、「50分の1の署名を改める」というならば、議会の議決の廃止もいうべきである。いずれにしてもこれも請求の問題点であり、実際請求されたものを否決するという理由にはならない。
牧野氏は、住民投票を実施するためには「よりよい結論が得られるという確信が必要である」(当該書269ページ)としているが、これは「自分たちの出した結論と違う結論が出そうな住民投票は否定しよう」というのと同じ意味であり、制度の検証というよりもそれへの自信のなさである。つまりその裏に、住民投票を実施しても多数を得られないのではないかという、静岡空港の事業そのものへの確信のなさがうかがい知れる。
3 ほんとうに住民投票になじまないのか
「静岡空港建設の是非は住民投票になじまない」とする牧野氏の論理は、1)昭和62年からこれまで十分に議会で審議してきた、2)代議制民主主義との関わりで「議会と長の対立、議会の二分などにより意見が集約できない場合」に限り実施すべき、3)事業の途中の段階で住民投票を実施すべきでないことを理由としている。それぞれについて検証してみたい。
(1) 議会は十分審議してきたので必要ないのか
実は1)2)の論点は、同じようなことを意味している。1)は、議会で質問にたった議員数、質問数などを示し代議制民主主義で十分やってきたことをいっており、2)は、それを理論的に行ったもので、前述の成田名誉教授の意見を引用して「議会と長の対立、議会の二分などにより意見が集約できない場合」(当該書270ページ)に限るとしている。いずれも代議制民主主義が重要であって、それでどうしても判断がつかない場合に住民投票を実施するというものである。
10年、20年前の議論ならいざ知らず、それで現在いろいろ起こっている問題を解決できる理論足りうるのだろうか。これでは全国次から次へと住民投票の請求がでてくることについて説明できないし、住民が直接政治に参加したいということを阻むものである。そしてそれは、住民には任すことができないという考えに導かれ、あまりにも代議制偏重ではないだろうか。
私たちは「代議制民主主義を補完する場合というのは議会の決定や首長の決定が、住民の意思とかけ離れた場合である。かけ離れているかどうかが量られるかは、署名の集まりの多さ、つまり有権者の50分の1以上の署名数の集まりで確認しているわけです。そして今回はその法定数6万の4倍をはるかに超える数が集まった」(稲葉世話人の参考人としての請求趣旨説明)と述べている。さすがにこれは無視できずに、牧野氏は「県議会と県民の民意がかけ離れていたか否かの点については、かけ離れていなかったと言い切ることはではない」(当該書271ページ)としている。この検証をきちんとすべきである。
(2) 事業の途中では住民投票を実施すべきでないのか
牧野氏は、周辺市町村の予算を含め1000億円以上をかけ、地権者をはじめとする方々の貴重な時間と苦労をかけたのだから、事業の途中で実施すべきでないとしている。この論点はあとの「実施された場合の問題点」とダブる論点であるので、そのときに検証していく。
ここでは牧野氏は学識経験者の参考人である榊原名古屋経済大教授の「(計画された当初と)社会経済状況など客観的情勢が変化している。事業の途中ということが住民投票を否定する理由とはならない」(当該書275ページ)という意見を引用しているが、成田東洋大名誉教授、坂田名誉教授の意見を並列させるだけで、そのことへの反論は試みていない。この反論をしない限りは、どんなに間違った事業でもいったん工事が始まったらそれを中止することはしないという、今県民がいちばんおかしいと思っていることへの答えにはならない。そこがいちばん聞きたいところなのに、牧野氏は口をつぐんでいるのはどういう訳か。
4 住民投票を実施する場合の問題点について
牧野氏は、 住民投票事務について市町村の「協力をとりつけることは、きわめて困難である」(当該書279ページ)ということ、 正確な情報提供が可能なのかという点である。つまり実施する場合の問題点として、この2点について「この必要不可欠な条件を満たすことはできず、現実的に住民投票の実施は困難である」(当該書281ページ)としている。
(1) 市町村の協力は困難か
都道府県の住民投票の場合、たしかに理論的には協力しないということがありうる。住民投票事務は県の自治事務であり、市町村に協力を求めるのは事務の委託か、権限の委譲などの方法によるからだ。しかし県知事選挙の事務や県議会議員の選挙の事務については法令で定めがあるものの、事務の管理主体は都道府県選挙管理委員会であるのに対して、実際の事務は市町村選挙管理委員会で行われることになるのであるから、原理原則からすれば住民投票の事務と同じことである。なぜ法令で定められているかといえば、選挙が民主主義社会に欠くことができないものだからである。今回の住民投票も県民の 73%が賛成している。これを断った場合に、政治的道義的に大きな責任が問われることは確かであろう。
それと私たちが独自に実施した町村長のアンケート調査でも、県議会が下した判断によるというのが圧倒的である。ごく数町、協力できないと回答してきたが、後で聞いた話によるとそのうちの一つの町の総務課長が、隣町から流れてきたひな形のFAXにしたがって「協力できない」と回答したが、隣町は「県の判断による」と回答して、うちばかり矢面に立たされて損をしたという話が伝わってきている。笑い話のような話であるが、県議会が自信を持って町村に働きかければ、投票事務は実現できると確信できる。これまで築いてきた県と町村の信頼関係に、もっと自信を持っていただきたい。
(2) 正確な情報提供が可能か
確かにこれも実施する場合の問題点に違いないが、前出のものとは性格が違う。前のものは実施する上での実務的な問題であるのに対して、こちらはどう内実を確保するか、実りある住民投票にするかという問題である。ただし牧野氏は「住民投票実施の前提条件は、正しい判断をしてもらうための十分かつ正確な情報が住民に提供されること」(当該書281ページ)としているが、その正確な情報というのは「静岡空港は利用者が少なく赤字を生む」といものではなく、「静岡空港は年間171万人が利用して、週34便海外へ定期便が飛ぶ」ということらしい。たいへん「正確」な情報である。この「正確な」情報を「 市町村の、有権者300万人というスケールで」「限られた期間内では困難だ」(当該書281ページ)というのである。反対、賛成を自由に討論してどちらが納得できるのかを討議していくのではなく、県のいうことを信じさせるための自信がないということにすぎない。県民は、正しいことを判断しないと考えているように思えてならない。
5 住民投票を実施した場合の問題点について
牧野氏は、もし住民投票を実施した場合の問題点として3つをあげている。それは、 (1)地元の民意をまず尊重すべきであり、住民投票を実施することは地元の政治不信を招きかねない、(2)空港建設中止の場合のコストが膨大である、(3)規模等の問題で他の自治体へ波及するということをあげている。
この中で少し奇妙に感じるのは、(1) 、(2) について、牧野氏がここで展開している論理は、本来住民投票を実施したときに賛成側から提示されるべきものである。まさにここでは住民投票を実施するかどうかを論じているのであって、その一方の側の主張を展開しても仕方がないのではないか。なぜこういう立論となるのか、理解できない。考えられるのは、もしかしたら住民投票をやれば負けると確信しているからであろうか。負けることを前提に、地元の政治不信やコストの問題を心配していると思えて仕方がない。これまで県会で14年間議論して、自信たっぷりなのではないか、住民投票をやれば必ず勝つと確信に近いものがあるのではないかと思うが、どうもそうでないらしい。そのことを頭に入れて、個々の問題を見てみよう。
(1) 住民投票の実施は地元の住民の政治不信を招きかねないのか
たしかに地元の地権者の方は、この 年間ご苦労をされてきたと思う。しかしそれを考える上でも、県はきちんとほんとうのことを地権者に説明してきたのか、ということは大いに疑問に思っている。需要予測についてもこの14年間で、534万人が178万人となり、それがさらに国内線では121万人となった。大関参考人は「県当局から私どもにいろいろな面から必要性を懇々と諭されるくらいの説明があった。空港の必要性を認めている」(当該書135ページ)といっている。こうした純朴な気持ちを踏みにじっているのは、いったい誰なのだろうか。
それとこれは、住民投票における適切な投票権者の地域的な範囲の設定と絡んでいる。これについては、坂田名誉教授が公明党県議の質問に、「静岡空港の場合には、静岡県民にとって必要かどうか、財政面、将来の採算性の面、静岡県がさらに伸びていくためにどう役立つのか、県民全体のことであるから静岡県全体を対象とした住民投票ということになる」(当該書178ページ)と適切に答えている。
牧野氏は、地元住民の政治不信については言及するが、73%の県民が望んだ住民投票条例を否決したときの政治不信には口をつぐんでいる。この民主主義に対する不信感というものが、実はいちばん怖いものなのである。
(2) ほんとうに膨大なコストがかかるのか
牧野氏は、結論の中で「空港建設と大差ない経費がかかる」としている。県当局の答弁は「住民の地域アクセス道路など必要最小限の工事として300億円、空港以外のものに用途変更した場合に課せられる加算金を付した補助金の総額として120億円ほど見込まれ、合わせて420億円となる」(当該書114ページ)と岩崎空港推進室長が答弁しており、現在までに使った費用963億円とあわせて1357億円で建設費との差は550億円であり、「建設と大差ない経費」とはいえない。
牧野氏が試算した静岡空港建設を途中でやめた場合のコスト一覧表
●これまでの事業費 | |||
県の議会答弁 | 2000年度以前の事業費 | 963億円 | ほんとうに不要は本体(約100億円)のみ |
●建設を続行した場合 | |||
県の議会答弁 | 2001年度以降の事業費 | 937億円 | 中止すればこの金額だけでなく、維持管理の赤字分も節約できる。 |
●建設を中止した場合の試算 | |||
県の議会答弁 | 治水・アクセス・生活生業費 | 300億円 | 後で活用できる |
国庫補助金返還分 | 120億円 | 国に返した例はない | |
牧野氏が追加 | 起債後年度交付税分 | 不明 | 以前も経費にはあげられていない |
跡地利用(公園の場合) | 190億円前後 | その費目で生きることになる | |
牧野氏試算計 | 610億円以上、これまでの事業費とあわせて1573億円以上 | 不要なのは本体(約100億円)のみで、あとは活用できるもの |
牧野氏は、これにプラスして跡地利用で190億円、起債の後年度交付税分の減少をあげ、さらに地権者から損害賠償請求されるかもしれないとしている。それらを県当局の試算に含めて「空港建設と大差ない経費がかかる」としている。
跡地利用については、地権者も含め民主的に決めるべきであると考えているが、新たな用途が決まったときはその用途の費目で支出されるべきで、空港の費用として支出されるべきものではない。また起債の後年度交付税分の減少については、地方財政を少しでもかじったものであればたいへん不確定なものであり、こうしたコストに含めないはずである。少なくともこれまで1900億円とした建設費用の起債の後年度交付税分の減少について、空港建設コストに含め、1900億円より少ない数字を発表したという話は聞いたことがない。
コストのことで総じていえば、県の1357億円というのも正確ではないと考える。つまり、無駄になるのはこれまで使った分も含めて本体工事の部分だけ、約100億円程度であり、後の道路や農地は適切な跡地利用など使いようによっては有効に使えるのである。また空港以外のものに用途変更した場合に課せられる加算金を付した補助金についても、これを返したという例を教えていただきたい。結論からすれば「空港建設と大差ない経費がかかる」どころか、跡地のことさえきちんと考えればけっして膨大なコストとはいえない。
地権者からの損害賠償であるが、これには誠意をもって応じなければならない。もともとうまい話をして、地権者に迷惑をかけた最大の責任は県にあると考えているからである。最後に牧野氏は責任の問題を論じているが、あれこれいうまでもなく、できてしまったときの赤字の責任と同様に、知事と空港に賛成した県議がそれを負うのは当然のことである。
(3) 他自治体への影響
これは私も認めるところである。牧野氏があげた・都道府県レベルで単独事業の継続か否かを投じる住民投票、・知事が賛意を示している、・2分の1以上進捗している公共工事の継続か否かを問う住民投票、・投票資格者が300万人規模での住民投票ということを考えると、全国にも大きな影響を与えることは確かである。
ただし牧野氏は悪い影響と考え、私はいい影響と考えるところが大きく異なっている。成田名誉教授の「これは全国の先例となり、一種空港、二種空港にも及んでいくものである」ということを引用している。連合審査会の中で成田名誉教授は、さらに基地、原発問題にも言及している。本音はここにあるのかもしれない。国政に属する事項も住民投票の対象足りうるかということは、国の地方制度調査会で 年間結論がつかない主要な論争点の一つである。それをいやがるところからさまざまなプレッシャーがあることは想像に難くない。そんな他の地方の圧力で、静岡県の大事なことが葬られたのではないことを願ってやまない。
また牧野氏は「小さな町村では極端に言えば小さな公民館一つ建てることも、住民投票をしなければならなくなるかもしれない」(当該書289ページ)といっているが、本気でそう考えているのか聞いてみたい。「出された請求は議会が議決をする」ということに目をつぶって、町村を脅かすことはやめていただきたい。
私たちはもし住民投票が静岡県で実施されれば、「大事なことはみんなで決める」ということが、真に全国に広がっていくと感じていた。永田町の論理で政治が動くのではなく、本来の意味での民意で動くようなきっかけになり、代議制民主主義自体も活性化されたのではないだろうか。
6 知事選の結果をどう考えるのか
牧野氏は、石川知事が知事選で獲得したのは過去最高の102万票であり、選挙の最大の争点は「静岡空港建設の是非」であったのだから、静岡空港建設は県民から信任を得られたのであって、住民投票をする必要はないというものである。
私は「はじめに」のところで、「当事者でなければ聞けない話が満載で、とても興味深く読ませてもらった」と書いたが、その興味深い第一は石川知事の言動である。もちろん牧野氏は、石川知事を悪く書けないという力が常に働くであろうから、そういうことを割り引いて読まなければならないかもしれないが、まず緊急記者会見をする朝、静岡駅付近のホテルで「空港問題だけが争点の選挙にしたくない」といったこと、知事選の中で知事は牧野氏の地元で「住民投票を実施していただきたいと牧野さんに何度もお願いしている」と演説してまわられて困惑したことなど、知事選は空港建設の是非が争点で、住民投票の実施の是非が争点ではなかったというのはたいへん無理があることである。
私は知事選において、この「住民投票の実施の是非が争点」ということをいちばん積極的に活用されたのは、他の空港反対を掲げて住民投票を後景に追いやる候補よりも、なによりも石川知事ではなかったかと感じている。いい悪いは別として、その利益も大きかった。知事選後の「自分を支持してくれた有権者が必ずしも空港を支持しているわけではないと思う」という言葉を、牧野氏はかなり重く感じるべきである。それは十分承知のことと思うが・・・。
むすび
以上牧野氏が提示した論点に沿って、検討を進めてきた。この中にはもちろん見解の相違と言うことも含まれていると思う。しかし重大な曲解、事実の歪曲もかなりあるのではないか。
これらの検証をしてきて文中でも繰り返し述べてきたことであるが、牧野氏の否決の理由の論理展開について思うことは、
(1)住民は、正しい判断をしないということが底流にある。だから「政治的に中立でない」人たちにだまされたり、「討議抜きで結論がでやすい、情緒に流されやすい」と主張するのではないか。
(2)住民投票をすれば絶対負けるという自信のなさである。期間が足りなくて「正確な情報」が浸透しないし、負けた場合を想定してコストを計算している。
(3)知事に対して、悪役に徹した否決の論理である。いろんな政治的力学のバイアスの中で、こんに筋の通らない理屈を言わなければならないと牧野氏自身が感じているかもしれない。この検証で私も大上段に切り込んできたのであるが、その事情も少しはわかるような気がする。しかしそれは、条例案を否決したという責任をいささかも免れるものではない。
ということである。
私たちは1から6理由では、住民投票条例を否決できないとあらためていいたい。しかし自民党県議はそれを実行した。この中で確実にいえるのは、自民党県議と県民はよりいっそう距離を広げたと言うことである。このような理屈では、複雑な今日の社会において、さまざまな議論されているところのさまざまな事業や施策において、住民の合意を取り付けていくことは困難であるといわざるをえない。
7月6日の連合審査会の中で、稲葉世話人はこういう言葉によって参考人の意見陳述を締めくくっている。「住民投票というのはある面では『価値自由』『価値中立』です。それは賛成・反対の議論をした後、多数になった方に納得して従うという機能があるためです。住民投票に負けたら土地を手放せというのは法律が異なる制度であるから論外としても、賛成・反対のある議論を一方に収斂できる。確かにこれまでは、ある事業に反対する運動が住民投票を請求してきました。しかしここにきてたとえば埼玉県の上尾市では、『さいたま市』への合併に賛成するグループが住民投票の請求をしているわけです。(石川知事は)おそらくこの機能を、統治する側の知事としてはじめて着目されたと考えます。このことは先を見る目があるという意味で、評価できると考えます。賛成・反対平行線で行っている事業を、ある面では決着できる。もしここで住民投票を行わなかったら、用地の買収などを考えるとおそらく2006年の開港はムリでしょう。主体部に反対地権者の土地があり、彼らに対して世論の支持が集まるからです。かなり長期化すると考えるのも、ムリのないことです。そして全県の県民の複雑な感情を引きずったまま、ことあるごとにこの課題が他の事業についても顔を出さざるをえません。議会の皆様は、それを覚悟しておいででしょうか。」と。
2002年2月25日